40歳は惑う。

不惑

40歳は惑う。日刊イトイ新聞の企画だ。不惑を文字ってのタイトルがイトイ新聞らしい。確かに、孔子の時代は「四十にして惑わず」。人間としてある程度の軸や価値観が固まってきた世代として見られていたが、現代は少し違う。家族に、仕事の現状に悩み、行く末にも悩んでいるというように、惑わずどころか、惑わされることが多い世代である。糸井重里さんはアエラの中で自身の生きた40歳を次のように語っている。

40歳を迎えるとき、多くの人は
仕事でも自分の力量を発揮できて、
周囲にもなくてはならないと思われる存在になっていて、
いままでと同じコンパスで描く円の中にいる限りは、
万能感にあふれている。

でも、40歳を超えた途端、
「今までの円の中だけにいる」ことができなくなる。
自分でもうすうす、
いままでのままじゃ通用しないと感づいている。
別のコンパスで描いた円に入っていって、
いままでとはぜんぜん違うタイプの
力を発揮しなきゃいけない。
その時、自分が万能じゃないし、
役に立たない存在だと突きつけられる。

http://aera.1101.com/itoi.html

「さすが、糸井さん!」と言わざる得ないぐらいの40歳の形容の仕方である。今までのやり方、方法さらには生き方を変えなくてはならないのが40歳ではないかと、私もその年齢を迎え自分の置かれている状況と照らし合わせるとしみじみとそう思う。自分の積み重ねた経験をある程度、応用して今後も生きていけるかと思ったら、それがまったく通用しない。じゃあ、方向転換するかといって、転換(いや、これはもう転向かもしれない)しようとすると、身体と頭がついてこない。かろうじて頭はついてこようとしてるのだが、以前自分が思い描いた回転スピードに比べると、「なんか遅い」。こうして自分の衰えと向き合わざるえない。こうなると衰えゆく自分に合わせた生き方を選択するようになることが実際に起こっている。

結構、悲観的なことを書いたが、人によっても個人差はあるが意外と思考はなんとかなる。だが、体力だけは嘘をつけない。体力も個人差はあるといえるが、やはり30代の頃の体力と比べれば誰しも確実に落ちる。一方で、社会的にはこれまでの実績の蓄積や経験が評価され、それ以上のものが求められ期待も増してプレッシャーもかかる。やはり、こうなると糸井さんの言う「別のコンパスで描いた円に入っていく」、おのずから過酷な道を選ばなくてはならない。だから惑うのだ。

村上春樹さんは「遠い太鼓」で40歳を“人生の分水嶺”と言った。私は40歳を表すのに適した言葉だと思っている。やはり、分水嶺と言うぐらい、今後の方向性を決める時期であることは間違いない。今後を決めるのだからやはりそれなりに苦労や悩みは伴うものなのだ。糸井さんは記事の中で「40歳はゼロになってもがく」と言っている。このあたりの言葉の使い方はやはりもがいた人じゃないと生み出せない。

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