坐禅は修行。

鎌倉がご近所になって、よく坐禅に行きます。
坐禅をするというと、よく周囲の方に「今度連れてって」などと言われます。
正直に言います。私はお勧めはしません、また、進んではいきたくないです。坐禅はリラックスもできませんし、ヨガ的効用などを求められて期待には添えません。
坐禅というものは、ただ、ただつらいのです。だって、坐禅は禅僧の修行です。

以前、私が坐禅をさせていただいたお寺では「全身の毛穴が開くように、自分の周りで起きていることをありのままに感じてください」と住職からアドバイスをいただきました。まさに、毛穴が開く状態、つまり全身の感覚を鋭敏にするために私は坐禅に行っています。

仕事の中の煩わしさや街の雑踏で人との距離が近くなると、どうしても周りから受け取るという感覚を私たちは閉じがちです。このような環境下では周りから受け取る感覚どころか、むしろ近寄らないでほしいオーラを出したりしています。そうなるとどうしても受け取ることに対して鈍くなるのです。また、最近はパソコンやスマホなどのデジタル機器に触れてる時間が増えて、人間との接触が少なくなります。たとえば、ひざとひざを突き合わした交渉なんかよりもメールでやりとりする、LINEで近況を報告なんてことが明らかに多くなります。そうなるとやはり人間から得る感覚を失ってしまいます。そんなときこそ坐禅は効果があるのです。

坐禅の手ほどきではないですが、坐禅の仕方を簡単に説明します。まず足を組みます。結跏趺坐(けっかふざ)といって左足を右足のももの上、右足も同様ののことします。手を組み手は組んだ足の上におきます。そして頭を身体の中心にもってきます。目は半分開けてそのままじーっとして1m先を見ます。私はこの半眼の状態が一番つらいです。目を閉じれば、多少瞑想や空想の世界に逃れることができますが、半眼ですと目の前の1m先の畳をじーっと見ることになり逃げることができないのです。そして呼吸も鼻から吸って鼻から出すのですが、なかなかうまくいきません。普段口呼吸になっていることを思い知らされます。よく聞く話ですが、口呼吸はあまり好いとはいえません。ばい菌などをフィルターなしでそのまま吸い込んでしますので、やはり鼻呼吸の方が人間の呼吸のあるべき姿だと言われています。そして、吸った息をそのままお腹までもっていく、腹式呼吸ですが、現在の私はお腹まで息が入りません。私の上半身だけが呼吸をしています。肩で息をする、なんていうのが近い状態です。呼吸が浅い、今の私はまさにその状態です。呼吸が浅いとどうしても息切れがして、どこかせわしないのです。それは自分の生活をそのまま体現しています。じっくりと構えて何かに取り組むなんてことができていません。

今日はすーっと、お腹に呼吸が入りました。やはり、腹式呼吸になるとどしんと構えることができ、身体の中心が定まりました。そうなると、周りで起こることもそのまま気にせず受け入れて、苦しい姿勢も気にならなくなります。そういえば今日はハエが私の周りを飛んでいましたが、軸が定まるとそんなこともお構いなしです。軸がないとふわふわふわふわ浮き足立つのです。軸が定まるようやく体の毛穴が開いていて、周りの出来事や音を冷静に深く受け入れることができました。坐禅は苦行ですが、それだけでなく、自分の現在の状態と向き合うためにあるのだとしみじみ感じます。おそらく、次回坐禅に行くとブログの内容もかわっているはずです。

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