50年前に書かれた予言書「情報の文明学」に驚く。

昨年、読んだ本で一番おもしろかったのは、糸井重里さんの「インターネット的」です。本の帯には“まるで未来の予言書”などと書かれています。確かにインタネットの今、起こっていることが10年前にすでに書かれている名著です。これは糸井さんの先見の明というか、本質を見抜く目にあったといえるでしょう。その本のなかにほぼ日の父のような書として「情報の文明学」が紹介されています。

情報の文明学

糸井さんも書かれていましたが、この本はすでにテレビの普及とともに情報産業の到来を予見しています。しかもなんと今から50年前以上にも書かれた本(論文)です。農業、漁業社会からモノづくりが中心の工業化社会、そして情報産業の到来。この本がすごいのが今の産業をすべて情報産業の中に入れて説明できてしまっていることです。テレビだけではありません。教育も宗教も、競馬の予想、占い、興信所にいたるまで情報産業にくくれると言っているのです。否定するつもりははなくまったく同感です。教育は知識という情報提供、宗教も神のお告げ(宣託)という情報提供です。よくよく考えれば、交通手段なんかも、今ではモノの移動という側面よりも、情報獲得のための人の移動という側面が強くなっています。何のために通勤電車に乗るか、勤務先に仕事の情報を取りに行くためです。それがインタネットがあればできるようになってきたので、在宅勤務が成り立つわけです。

もうひとつ、この本で驚いたのが、その情報産業は人間に対して何を提供しているかという捉え方です。「五感の産業化」。映像のような視覚、音楽のような聴覚、そして料理のような嗅覚、味覚。すべて人間の五感に訴えるものがまさに情報産業でサービスになりうるものなのです。私たちはモノを買っているのではなく、五感に付随する情報を買っていることになります。さらに五感のような特定の器官によらないものを体験情報としています。たしかに何かを体験するという行為も全身で情報を受け止めていることにほかなりません。

さて、情報が氾濫する時代、情報産業で何か起こっているか。情報を五感に訴えて、興味を持てばそれ以上の情報を提供します。あるいはメディアやお試しで五感に訴えて、現実の世界の体験に導きます。そうしないことには情報産業は成り立たなくなっています。なぜなら情報が無料になっているからです。そしてこの時代にいたって価値ある情報というのは体験情報ではないでしょうか。それは情報の受け止め方にひとぞれぞれ「違い」があるからです。もちろん五感情報も人によって受け取り方は違います。その一律ではない「違い」が今の時代における情報の価値に思えて仕方ありません。そんなことを示唆してくれた本でした。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加