座禅に行きました。最近、時間に追われているためか、1時間も座り続けるのは結構つらかったです。
えっ、まだ終わらないの?
みたいなことが何度もありました。座禅は修行なんです。私の通ってるお寺では、座禅会のあと、管長の講和があります。管長のお人柄なのか、お話いただくこと深いのですよ。
人間には欲があるから、それを空っぽにするのが「空」
座禅論を読み解いていただけるわけです。こんなのもありました。約1年前ですね。
今年最後の坐禅。我を捨て去り、他者との和合を目指せ。深い。
— 鬼ぃちゃん (@onionpeace) 2015年12月30日
世の中、どんどん曖昧さの許容が狭くなっています。そうなってくると、曖昧な主観的な発言には突っ込みがはいるわけです。実は仏教の教えなどは、まさにブッダの教えであり、それを解釈した人の教えであり、そこに客観性があるかというと実はすごく疑問が残るのです。
例えば、他者との和合とはどういう状態をいうのか、人間の欲をなぜ空にしなくてはならない?など質問をしても実はあまり具体的な回答がなかったりします。そのようなことは自分の内面で起こることで、他人が外から見ても、「この人今、空の状態」である、なんてわかるわけがありません。
寺で聴く説法はありがたい。それなりの立場の偉い住職が話すから、ありがたそうに聞こえのであって、実はよくよく聞いてみると論理性などはない。「生きとし生きるものは生死を繰り返す」なんて言われたら、「なぜそんなことが言えるんだ?」「あんた見たのか?」突っ込みを浴びるのが現世。
— 鬼ぃちゃん (@onionpeace) 2017年2月5日
死後の世界なんて現世は行ったことがないですから、それが事実かどうかはわからないのです。別に仏教批判とかしているわけでなく、科学としてみたときに納得しずらいものを含んでいるのです。このようなことが通じない世代が出てくると仏教はお手上げということにもなりかねません。
少なくとも体験をさせて、実感させることはできるのではないかと考えています。
たとえば、瞑想と座禅は違います。瞑想は目を閉じますが、座禅は半眼です。半分を目を開けてじーっとしておくのはつらいです。でもそうすることで自分の周囲のことが見え、よく聞こえます。目を閉じると自分の周りの世界と遮断されるのです。自分を含め、自分の周りのすべてと融合する。これが座禅の目指すところです。実はこれは座禅と瞑想をやるとその違いがよく分かるのです。
比較によってそのとらえ方、感じ方の違いを発見する。そんなことも今後座禅を経験してもらうのに必要な演出になってくるかもしれません。