作者の中沢さん亡くなってしまったんですよね。
8月6日広島は70回目の原爆の日をむかえました。被爆者の高齢化がすすみ、その経験を語り継ぐ語り部の存在が少なくなってきています。
直接原爆を経験した人の言葉は本当に実感として伝わってきます。語り部の当時の状況の詳しい説明は、被害の甚大さ、残酷さが脳裏に浮かぶくらいに説得力があるものです。私は広島出身なので、語り部の話を聞く機会がこれまで何度かありました。その機会がない方には、やはりはだしのげんを読んで欲しい。語り部の話を見事に漫画にしています。
私が小学生のころ、学校の図書館には必ずおいてありましたが、だいたい貸出中になっていました。また、小学校低学年で読むと、だいたい夜眠れなくなります。やはり、漫画とはいえ描かれている描写、肌がただれた人がゾンビのようにあるくシーンや元安川に水を求めて飛びこみ、流れる死体などはあまりにもショッキングだからです。
ところで、語り部の話であり、はだしのげんであり、何をメッセージとして伝えているかというと、このあたりは本当によく誤解されているので声を大にして言いたいのですが、
まずは核兵器が悪い、平和であるべきだということでもありません。
また、ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキでもありません。
実は、お話の中から「平和であるべきだ」などといったことは私は一度も聞いたことはありません。
生きるのに必死だった。
そんなことは痛いくらいに伝わってくるのです。その中で人間ドラマや憎悪劇みたいなものも当然あります。はだしのげんはそれを包み隠さず描いたという点では、やはり後世に残す作品です。そして、人間が生きていくために争いや対立が生まれるのですが、実は同じ被爆者同士で起こっているのです。このことは評論家の呉智英さんの引用をさせていただきます。
たとえばこんなシーン。画家を志していた青年、政二が被爆してヤケドを負い、優しかった家族からは「ピカの毒がうつる」と疎まれ、近所からも「おばけ」と不気味がられます。ゲンは1日3円の報酬で政二の身の回りの世話を引き受ける。ゲンがリヤカーに乗せて連れ出すと、政二は突然、自分の包帯を取り、「このみにくい姿をみんなの目の奥にたたきこんで一生きえないようにしてやる それがわしのしかえしじゃ」と、その姿を町民の前にさらすのです。政二にとって憎むべきは、原爆を落としたアメリカでも、泥沼の戦争を長引かせた日本政府でもなかった。程度の差こそあれ同じ被爆者である近所の人たちだったのです。
人間はきれいごとだけではいきれない、世間体を気にする生き物であることが、この漫画を読めばよく分かります。そして読み進めていくと、目を背けたくなるのは、悲惨な状況ではなく、憎悪に満ちた人間に対して起こってくるのです。
実は平和教育では、そんなことをあまり教えられてきません。当時を生きた人々の感情やストーリーがないまま、いきなり平和、反核に結びつけるのです。原爆が投下された、広島が被害にあった、そこで生きた人はどうやって生き抜いてきたか、そしてその人たちには周りの人はどう映ったか、そんなことをしっかり伝えて後世の人が何を思うか問うべきです。さて、残念ながらその人たちも少なくなってきました。だから、このような生々しい作品の存在が貴重なのです。
kindle版も出てます。