「なにも足さない、なにも引かない」世代です。

コピー、それは広告文。ただし、その広告文が一人歩きして、言葉としての息吹を持つことがある。それがコピーの魅力だと思っていた。

先日、面白い体験をした。Webにおけるコピーライティングを教えてもらった。Webもいろいろ種類があるので、サイトの目的によってコピーライティングを変えなくてはいけない。たとえば、ECサイト。これは、訪問者にその場で購買の決断をさせなければならないサイトだ。そうなると、コピーもその商品の特徴や機能などを存分に伝えたほうがいい。しかも煽るように勢いをつけて伝えなければ訪問者はその場で決断をしない。よくあるのが「限定」「今だけ」「ラストチャンス」などは常套句だ。そして、商品の特徴も包み隠さず伝える。お米であれば「魚沼産コシヒカリを契約農家が無農薬で合鴨農法で丹精込めてつくりました!」みたいなものをすべて盛り込む。

これを聞いたとき、「うわー、直裁的に表現してしまうんだ!」と正直、驚いた。コピーは敢えて見方を変えたり、人々が気づかなかった視点を気づかせて「なるほどね~」と思うところに醍醐味があった…はずだ。それをそのまま言ってしまったのでは、あえて隠して謎を楽しむ、余韻を楽しむ、新しい発見に驚くなんてことが全くない。

私はコピーといえども、日本文化が出ていると思っている。「隠す」「遠まわし」「あえて言わない」でもみんなが阿吽の呼吸でうなずくなんていうのは日本の文化そのものだ。また、そのことによって、われわれにイメージを膨らませることができる。その文の背景を考えるなんていう知的作業ができた。ただし、それには読み手の方で多少の時間もかかる。一見なんだかよくわからないものを、「そうだよね」と言わせるにはやはり時間がかかる。つまりコピーには多少の遊びの部分があった。

ECサイトのコピーはこの遊びの部分がない。Webでは訪問者が次々とクリックしていくので、時間がないから、わざわざ考えさせて、サイトから離れていくようでは機会損失である。そうなると、一目で見てすべてを伝えた方が早い。非常に効率的、合理的、経済的であるが、コピーを楽しむことはできない。

元来、コピーは広告文であるので、その人を購買に導くための説得の文章だ。どうせ読まれないラブレターを少しでも振り向いてもらうために、これでもか、これでもかといろんな角度から書く。それで生まれたのが、名作と言われたコピーだ。

なにも足さない、なにもひかない

これなどはもはやウィスキーのコピーなんだが、そんなこと言ってしまうんだ、あるいは詩の一文としても認めてしまうようなものだ。端的に言えば、カッコいい。

もはやWebのECサイトのような場所ではコピーも名作である必要はない。手っ取り早いに越したことはないということであれば、実利的なコピーに様変わりしていく。ただ、読み手は楽しくない。書き手と読み手のキャッチボールも存在しない。そもそも広告文に楽しさを求めてはいけないかもしれないが、やはり「やられた!」という驚きを消費者に提供するのが広告であり、それを支えるコピーではないかと思う世代の私には少し衝撃的な体験だった。

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