都市化する身体をとめる。

“年化”ではなく、あくまでも都市化する身体です。インフルエンザの話もあって身体の話が続きます。

昨年ショックなことが3つありました。まずは水泳です。何年ぶりかにプールで泳ぎましたが、25m泳げないのです。昔は泳げていた距離ですが、今では呼吸が続きませんし、何よりも悲しいかな体力が持ちません。2つめがサバイバルキャンプに参加したときのことです。私は火も起こすことができない、ナタの使えませんでした。いかに自分が自然と接していないかを思い知らされました。そして最後がカヌーに挑戦したときのことです。カヌーが前に進まないのです。オールが漕げないのです。オールを右へ返し、左へ返し自分では漕いでいるつもりですが、現実には前には進めない、そのもどかしさといったらありませんでした。

今回自分の身体の使い方、身体のありかた・置き方を変えようと思ったきっかけでした。当然、私は不惑ですから身体のガタがきています。それは肉体の衰えからくるものですが、私のショックはそれではなく、どちらかというと身体の都市化に対して起こっているのです。日々の暮らしのなかで、明らかに泳いだり、自然と接する機会は多くありません。正確に言うと私が子どものころから泳ぐこと以外に、カヌーを漕いだり、キャンプをしたりすることを誰かに教えてもらったことはありません。自然学校、野外活動でそれらの経験の機会はありましたが、時間をかけてそれらを身につけるまではいきませんでした。その活動が私の日常になっていなかったのです。つまり、生活のなかで泳ぐ、船を漕ぐ、火を起こす、野外でごはんをつくることの必要性がないのです。私でなくても周りの子どもたちもそうです。だから大人になってもできません。それを子どもに教えてやることもできません。

そして、自分の身体を通じてそれは確かな危機感に変わります。上記のような活動では、明らかに自分が普段使わない筋肉が筋肉痛となります。オール漕ぎなどが良い例です。腕の筋肉を使いますが、普段ものをもちはこびするにはあまり意識して使わない部分です。こうして使われないことを意識しないまま自然の肉体的な衰えをむかえる動きがあるのです。こういた動きを普段の生活の中に取り入れようと試してみましたが、なかなかその機会がありません。なんせ自分の自分の運動を振り返ってみても、駅までの自転車通勤、満員電車での通勤、そしてデスクワーク。動きを取り入れる機会がまったくないのです。土日に取り入れたぐらいで済むものではなく、何か生活を根本から変えていかなくてはならないと考えるようになりました。

自然と向き合い、そのなかで身につけた技術、鍛えられた身体こそが人間が本来生きていくために必要な能力ではなかったのでしょうか。農具で田畑を耕し、武器で狩りに出る。そのために必要な道具であり、使うための身体がありました。残念ながらそれを現代人は失いつつあります。身体に負担をかけずに効率の良い生産性の上げ方を身につけてしまったからです。それを必死で取り戻そうとトレーニングをして肉体的な負荷を意図的にかけたり、四角四面を囲まれたプールで泳いだりします。でも、いざという時に使う身体能力は違うものです。それを養えるのはやはり実戦場面のみです。別にいまさら農家をやる猟師になるというわけではありませんが、海で泳げるようにする、船を漕げるようにする、山道を走り抜けれるようにするといったことくらいはできるようになっておきたいものです。とくにこれらの身体能力は日常時ではなく、災害や異常気象などの非日常時にこそ必要になってきます。今や日常と非日常時の生活があまりにもかけ離れてしまっています。非日常を身近にする。それが都市化する身体を食い止める方法です。

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