久々に座禅に行きました。座禅が終わった後に館長の説法があるのですが、今日も良いお話をされていました。
執着を手放しなさい。執着するのはそこに心がとらわれているということ。
たしかに物事に執着すると、良いことはあまりありません。人からも嫌がられたりすることもあります。執着はなぜ起こるか?それは、失うのが怖いからです。手放すのが怖いからです。執着はその人のこだわりや欲の強さではなく、むしろその人の弱さの現れなのです。
この執着によく直面するのが、仕事のときです。
特に仕事を失うとき、やはりそれはそれはすごい執着を見ることがあります。
そりゃあ、そうです。仕事を失うということは食い扶持を失うということですから、失う人は必死です。「仕事がない」「仕事が出せない」という顧客(取引先)に対して喰ってかかる人もいます。
延々と自分がこの仕事から外れるとどうなるかを説く人もいます。そして、脅しのように迫ってくる人さえいます。生々しくて書けないこともあります。
やはり仕事は顧客や相手があって成り立つものですから、顧客のニーズに合い、要請があれば仕事は生まれます。それが合わなくなると仕事はなくなります。
一度は顧客になってもらって取引が続いたけど、その関係は未来永劫続くとは限りません。やはり顧客の状況は変化して、自分が仕事として提供していたものはニーズを満たさなくなることが出てきます。
顧客との関係が長く続けば続くほど、自分も年齢を重ねて執着が強くなります。
仕事がなくなるときには「これだけ自分がやってきたのに」と、これまでの自分の実績を盾に抵抗します。やはり、自分が変化に対応できなくなっていることも要因としてはあるのです。
これは断定できないのですが、年齢を重ねていくと変化への抵抗も強くなります。その分、執着というものが一層強くなるように思えます。
結構、仕事がなくなることで大ベテランの方ともめるというケースは多いです。
それでも、仕事がなくなると「自分も長すぎた」「後進に道を譲る」などとすっぱりとその仕事をやめてしまう人もいて、執着というものを微塵も感じさせない人もいます。そのような人を見ると「できた人だなー」と常々感心させられるのです。
今日、館長の講和を聞いて思ったのですが、やはり執着は人間の弱さの現れであり、むしろ手放す人は潔いとか、あきらめがいい、とかではなく、むしろ「強い」と言った方がいいのかもしれません。
不思議とそのような人は次に会うときは新しい仕事をしていることが多いのです。