自分の弔辞を自分で読んでみる。

弔辞と言えば、故・赤塚不二夫先生の告別式でタモリの読んだ弔辞が話題になりました。「私もあなたの作品のひとつです。」しかもタモリの手にした紙は白紙で何も書いていなかったとか。さて、弔辞は故人の葬式・告別式で読まれるもので、故人に対する最大の賛辞です。もちろん、本人はそれを聴くことができません(死んでますからね)。

焼香

「だったら、生きているうちに自分で自分の弔辞を書いてしまおう!」ということで研修で実際に弔辞を書きました。自己分析のなかの1つのセッションだったんですが、やはり自分の弔辞をつくるなんて初めての経験です。

2時間くらいで弔辞を書いたんですが、まず書こうとしてもいきりなスラスラ書けるものではありません。まずはじっくりと自分の生い立ちを振り返ります、過去の出来事、思い出、イベントを洗い出します。子ども時代は人に誇れるようなことがあっても、社会人になってくるとそんなに自慢できるようなものはなくなってきたり、

自分って、たいしたことやってないじゃん?これでいいの?

なんてまじまじと考えこんだりしてしまいます。あるいは、

自分がこの世にいた証とは何だろう?

なんてことも頭によぎったりします。「そうだ、このままじゃイカン!」なんって思うと、弔辞の素晴らしいのは過去だけでなく、これから先、つまりは自分の死に向けての未来の物語もつくることができるんです。

そう、それが自分の夢、やりたいことや、あるいは自分がこれから生きた証なんてものも意図してつくることができるのです。よく、あるじゃないですか?「3年後のありたい自分」「自分のビジョン」とか、でもこんなことを問われても、通常だとなかなかこたえることはできません。ただ、自分の死、死に至る過程を想像すると、自分の大切なもの、守るべきものが明確になります。自分がやるべきこと、やり残したことを考えていくと、意外と「すぅー」っと自分の先の姿が書けたりするもんです。そのためにすべきことが自分の取り組むべきことなのです。

自分の弔辞を書くだけでも面白いのですが、研修では自分の弔辞をメンバーに読むのですが、他者の弔辞を聴くと実に面白いんです。面白いというのは、他者の人生から自分も学べるし、そして何よりも顕在化しているもの、潜在的なもの含めてその人のことがよくわかる。また、一応弔辞なんで、なんだか聞いてる方も感動してきたり、泣けてきたりします。私より一回り上の方で、あまり目立たない感じ人がメンバーにいたんですけど、その方の弔辞を聴いて涙が出そうになりました。

フツーの人生を送って、ごくフツーに最後を迎えるんですが(ご自身が言っています)、そこには最愛の人に看取られる姿があるといったことを、淡々と語っていたのですが、とってもリアル感があり、聴いている方もその光景が目に浮かびます。そしてその人の良さみたいなものが滲み出ていました。聴いていて「惜しい人をなくしてしまった」と思えるくらいです(まだ生きてます)

過去は変えられないが、未来は変えられる。

研修で先生が言われていた言葉ですが、自分の弔辞を書くというのは、自分の未来を変えることにつながっていました。一度、自分の弔辞書かれてみてはいかがでしょうか?

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